- 乐观的人永远前行
- 我的努力会给她人和世界带来积极的影响
- 我的过往不会成为我人生的判词
为什么工作后就读不了书了
这个月读完了 Miyake Kaho 的「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」,一鼓作气读完了,比预想的好读很多。果然还是不能拖拖拉拉的,每天读一点,读着读着就去做别的事情了。 书里从明治、大正、昭和战前战中,一直到 2010 年代,介绍了各个时代的人喜欢阅读的书,并探讨:为什么在那个时代,那种书会成为畅销书? 老早的时代对我来说太陌生,提到的作家我几乎都没听过。直到 1990 年代,书里出现了樱桃小丸子,我才有熟悉感。那个时代的畅销书,是大量的“自我启发类”——寻找自我、提升动机、在脑中反复说积极的话。恰逢日本的就职冰河期,无法改变社会,于是只能努力改变自己。 那,为什么工作后就读不了书了呢?不是没有时间,而是没有心力。精气神被工作消磨了,闲暇时间也只能做一些不消耗脑力的事情,比如手机游戏,短剧。《花束般的恋爱》里面的男主人公就是这样。 读书变成了工作的噪音。 现在宣扬的价值观是通过劳动,通过工作进行自我实现。而很多人,包括我都把这个价值观内化了。于是读书越来越功利化: 为了获取信息,为了快速理解,为了能立刻运用。5 分钟解读视频大受欢迎,快速阅读法成热潮。原著里那些“与我无关、不能立刻变现”的部分,都被当成了“噪音”。 作者提出的解决方案是,半身工作,半身生活。 不要全身心投入工作。 用 一半的自己履行劳动职责,另一半的自己用于兴趣、阅读、思考、生活。 书里提到了一些观点我非常认同: 1️⃣能够努力,能够有内在动机想要去学习,去读书,这也是一种幸运。 能够“自然拥有学习动机”的人,其实是社会中相对“被眷顾”的人。现实中,贫困阶层在动机产生之前就被淘汰了。不想学习并不仅仅是个人问题。 2️⃣自我启发类的书,是一种试图让你远离社会的类型的书。 它让你只关注自己,忽视社会结构和制度问题。好像我现在的一切痛苦都是自己的责任,我懒惰,我拖延,我不行动。听起来很正确,人要为自己的行为负责,但是这却会让人忽略现实环境,工资结构不平衡,工作环境很差,年轻人机会少等等。书,也可以说是社会规训普通人的工具。让你全部向内看,把问题都当作是自己的,而不是社会的。人生真的没有那么容易改变。 我也曾经看过很多逆袭的书,书里也有很多的方法论,看着主人公一步步变得更好,好像未来的我也会如此。但是合上书,往往只能改变几天,几个星期。之后就回到了原来的生活。我以为是自己太懒,无法坚持。 真正改变了我的,好像只有女权主义,接触到6B4T之后,减少了很多无用的消费,容貌焦虑和身材焦虑全都好了,自动去追求更舒适的穿着。真正的道理或许就是这样,大道至简,根本不需要努力坚持,一下子就少了很多的烦恼。而让你去逼迫自己行动的大道理,故作高深的,巧立名目的,很难能有用。
tree-sitter 升级到0.25之后so文件的编译方法
旧版本写法 之前用的是0.24版本的 GRAMMAR_DIR = 'tree-sitter-c' LIB_PATH = 'build/my-languages.so' # 言語ライブラリのビルド(一回のみ実施) if not os.path.exists(LIB_PATH): print("Building...") os.makedirs('build', exist_ok=True) Language.build_library( LIB_PATH, [os.path.abspath(GRAMMAR_DIR)] ) C_LANGUAGE = Language(LIB_PATH, 'c') parser = Parser() parser.set_language(C_LANGUAGE) 新版本写法 升级到0.25之后这样的写法就会出错,更新了写法,好像也应该更新.so文件 LIB_PATH = 'build/tree-sitter-c.so' lib = ctypes.cdll.LoadLibrary(LIB_PATH) lib.tree_sitter_c.restype = ctypes.c_void_p c_ptr = lib.tree_sitter_c() ptr_value = ctypes.cast(c_ptr, ctypes.c_void_p).value C_LANGUAGE = Language(ptr_value) parser = Parser(C_LANGUAGE) 新版本so文件的编译方法 so文件的编译方法如下,需要下载MSYS 打开MSYS2 MINGW64 的软件 需要确认已安装 Node.js, npm, gcc node -v npm -v gcc -v 进入到tree-sitter-c文件夹目录 依次执行以下命令 生成解析器源文件,这一步会在 src/ 目录下生成或更新 parser.c(以及可能存在的 scanner.c) $ tree-sitter generate 编译生成新的 .so 文件 $ gcc -shared -o ../build/tree-sitter-c.so -fPIC src/parser.c 执行完成后会在 build 文件夹下面生成一个名为 tree-sitter-c.so 的文件。 这样就可以在代码中使用这个.so 文件了。
第三弾ーーカービィと川の神
ある日、カービィは川辺を歩きながらリンゴをかじっていました。 「シャリ…poyo~🍎」 ところが、つるりと手をすべらせて、ぽちゃん! リンゴが川に落ちてしまいました。 すると、水面から川の神さまが現れて言いました。 「カービィよ、お前が落としたのは、このキラキラと光る巨大なショートケーキか?🍰 それとも、この湯気を立てる香ばしい焼き鳥セットか?🍗」 カービィはぱちぱちと目を瞬かせ、首を横に振りました。 「ちがうよ~。ただのリンゴpoyo〜」 川の神さまはにっこり微笑みました。 「正直なお前に、この三つ全部をあげよう!」 カービィは目をキラキラさせ、 「わあぁぁ!poyooooo!!!」 ケーキも焼き鳥もリンゴも、まるでおもちゃを食べるかのように一口で「ぱくっ!」と平らげてしまいました。 翌日、またカービィはリンゴを持って川辺を歩いていました。 「昨日はおいしかったなぁ…poyo~」 考えごとしているうちに、ぽちゃん! またリンゴが川に落ちてしまいました。 川の神さまが姿を現しました。 「カービィよ、お前が落としたのは、この豪華な彩りの寿司盛り合わせか?🍣 それとも、この黄金に輝く分厚いステーキか?🥩」 カービィはおなかをぐぅぅと鳴らしながら言いました。 「ちがうよ~。ただのリンゴpoyo〜」 川の神さまは大笑いして、 「正直なお前に、この三つ全部をあげよう!」 カービィは大喜び。寿司もステーキもリンゴも、あまりの美味しさに、ほっぺたをぷにぷにと震わせながら一気にたいらげました。 「poyoooooo! さいこう!」 三日目、カービィはリンゴをじっと見つめ、にやりとしました。 「ふふっ…また落としたら、きっとごちそうがもらえるpoyo…」 わざと指先をすべらせると、ぽちゃん! リンゴは川へ。 川の神さまが現れて言いました。 「カービィよ、お前が落としたのは、このドリーミーな巨大なアイスクリームパフェか?🍨 それとも、このこんがり焼けた丸焼きブタか?🐖」 カービィは無邪気な顔で答えました。 「ちがうよ~。リンゴpoyo〜」 「正直なお前に、この三つ全部をあげよう!」 カービィは満面の笑みで、パフェもブタもリンゴもぺろりと平らげました。 それから毎日、カービィはわざとリンゴを川に落とし続けました。 落ちるたびに、ケーキ、ステーキ、寿司、アイス、ハンバーガー、ピザ…… まるで地球の裏側からやってきたかのような、見たこともない珍しいごちそうが川から現れ、カービィのおなかに消えていきました。 ところがある日。 カービィがリンゴを落とすと、川の神さまが現れました。 「カービィよ、お前が落としたのは――」 そのとき。 神さまの目がカクカクと動き、その体の周りに、緑色の文字がチカチカと光り始めました。 「OutOfMemoryException」 次の瞬間―― 空から無数のごちそうが雨のように降り注ぎました!🍔🍣🍖🍩🍕🍦🍫🍟 カービィは目を輝かせ、 「poyoooooo!!! たべほうだいだぁぁ!!」 ハンバーガーも、寿司も、ケーキも、神さま自身も、 さらには「ERROR」の文字まで―― ぜんぶ一口で食べつくしてしまいました。 気がつけば、川は静かに流れ、世界はまた平穏を取り戻していました。 おなかいっぱいのカービィは草むらにごろんと寝転び、 「poyo~……zzz」 次の日、カービィはまたリンゴを手に川辺を歩いていました。 「ふふっ、きっとまたごちそうが…poyo~」 そう言いながら、わざと手をすべらせ、ぽちゃん! リンゴが川に落ちました。 ……しかし。 水面は静かに波紋を広げるだけ。 川の神さまはもう現れません。 ケーキも、ステーキも、寿司も、何も出てきません。 カービィは首をかしげました。 「あれ? ごちそうはどこに行っちゃったの? 神さまは? poyo~?」 空気はしんと静まり返り、ただ川のせせらぎの音だけが響いていました。 カービィはしばらく川面を見つめていましたが、 やがてリンゴを思い出し、 「……まあ、リンゴもおいしいからいっか。poyo~」 と、残りのリンゴをかじりました。
大阪世博两天体验
不是攻略,纯个人记录吐槽。 ...
为什么我反对“顺性别”,“跨性别”,“非二元”的分类?
很久之前,就有跨性别反而加深刻板印象的想法,最近一番思考,觉得非二元也是如此。 接下来说明我的思考过程。 首先这里的性别指的是“社会性别”,因为生理性别几乎是已经确定了的。在对“顺性别”,“跨性别”,“非二元”进行划分的时候,他们已经是认同了传统男权下的社会性别的定义,比如女性柔弱,男性阳刚勇敢等等。 如果这种分类方式成为主流,当一个生理男性不符合“阳刚勇敢”的男性刻板印象时,他就可能被认为“不是男性”,从而转向认同自己是“社会性别上的女性”,或被他人这样归类。 而一个人觉得自己既不符合刻板印象女,也不符合刻板印象男的时候,就会把自己划分为非二元。如果二元不存在,非二元自然也不存在了。越是按照这种方式分类社会性别,越是强化传统男权下社会性别的定义。你已然接受了它,又怎么可能在认同的基础上反对它呢? 这种分类方式,并不是让一个人可以自由自在成为自己想要的样子,而是把传统男权定义下的社会性别当作一个壳子,把自己套进去,套不进去的人,就另外做了一个名为“非二元”的壳子。跨性别和非二元的逻辑基础,本质上是对传统男权性别结构的默认与延伸,因此二者在政治立场上的联动也就并不意外了。 那么反对男权定义下的社会性别的人,是在怎样做呢? 她们脱去束身衣,或短发或寸头,T恤运动裤,保持自然舒适的着装,也坚决维护自己身为生理性别女性的权利,拓展女性的生存空间。不需要也绝对不会把自己套进壳子里。 最近有一个南京红爷焦某某约炮1600余人的新闻,官方报道一开始写的是“红姐”,因为众多女网友反对才改成了“红老头”, “红爷”。这时一些支持跨性别的人跳出来说,焦某某心里性别是女性,就要叫“红姐”。先不提这种,我心里认为我是什么性别于是我就是了,这种逻辑多么离谱。这些人又不是焦某某肚子里的蛔虫,怎么知道他的心理性别了?依靠外貌判断吗?这不还是在强化刻板印象? 这些支持跨性别的人,为什么不是扩展男性形象为“男的就是喜欢和男的屌来屌去”,“男的一点也不挑,有洞就行”之类的荡夫羞辱?因为归根结底支持跨性别的人还是在“爱男”啊。舍不得生理男性被侮辱,被弱化,如果非要羞辱一个男性,也得先把他放进“女性”的身份壳子里,仿佛只有成为“女性”才能正当化对他的侮辱。这种思维本身就是对女性的极度厌恶。 支持男性穿裙子高跟鞋黑丝红唇大波浪的自由,但是这就是男性,不是什么跨性别,生理男性是什么样,社会男性就是什么样。